決戦の年!我々は「正義の戦い」を古賀都議 警視総監に「國旗日の丸への敵意」に対する抗議

2010年12月22日

奉祝 天長節 (天皇陛下御誕生日)

天皇陛下におかせられましては、

明日七十七歳のご誕生日をお迎えになられます 

 

臣民のひとりとして心からお祝いの言葉を述べさせて頂きます。

 

天皇陛下の御誕生日を

祝寿し、御長寿と皇国の

益々の繁栄を祈願いたします。


天皇陛下万歳 日本国万歳

 

 

一般参賀の様子(宮内庁ホームページ) 

 

 天皇誕生日一般参賀要領宮内庁

 

 期  日 平成22年12月23日 (木曜日 祝日
 参入門 皇居正門(二重橋)  (午前9時30分~午前11時20分)
 退出門 坂下門,桔梗門(ききょうもん),大手門,平川門,北桔橋門(きたはねばしもん)

 

 お出まし(予定) ○天皇皇后両陛下,皇太子同妃両殿下,秋篠宮同妃両殿下
 第 1 回  午前10時20分頃
 第 2 回  午前11時00分頃
 第 3 回  午前11時40分頃
 
 【午後の一般参賀(記帳)】
 場  所  皇居内 宮内庁庁舎前特設記帳所
 参入門  坂下門
              (午後0時30分~午後3時30分)
 退出門  桔梗門(ききょうもん),大手門,平川門,北桔橋門(きたはねばしもん)

              (閉門:午後4時)

 

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昭和天皇の御巡幸

「復興への三万三千キロ」

  

  天皇陛下にまつわる話として、非常によく知られた「昭和天皇の御巡幸」について、お馴染み・国際派日本人養成講座の伊勢雅臣氏が、平成12年4月29日に「復興への三万三千キロ」のテーマで見事にまとめていますので以下でご紹介致します。このテキストを編集しているときでも「涙、涙」でした。

 

国柄探訪:復興への三万三千キロ

 

「石のひとつでも投げられりゃあいいんだ」

占領軍の声をよそに、

昭和天皇は民衆の中に入っていかれた。 
  

1.石のひとつでも投げられりゃあいいんだ

 

 ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。
 ヒロヒトが四十歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、ということをね。
 それが生きた民主主義の教育というものだよ。
       
 昭和二十一年二月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされた。 [1]

 

 しかし、その結果は高官達の"期待"を裏切るものだった。昭和天皇は沖縄以外の全国を約八年半かけて回られた。行程は三万三千キロ、総日数165日。各地で数万の群衆にもみくちゃにされたが、石一つ投げられたことはなかった。
   
 イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。
   
 日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。
   
 イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか一ヶ月で廃位に追い込まれた。それに対して、日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?欧米人の常識では理解できないことが起こっていた。[2]
   
2.全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励ましたい

 

 昭和天皇が全国御巡幸の決意を示されたのは、敗戦直後、昭和二十年十月であった。宮内府次長加藤進氏に次のように指示された。
   
 この戦争により先祖からの領土を失ひ、国民の多くの生命を失ひ、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればよいのかと考へ、また退位も考えた。しかし、よくよく考へた末、全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。

 

 このことをどうしても早い時期に行ひたいと思ふ。ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだらうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかはまつたく考へることなくやってほしい。宮内官はその志を達するやう全力を挙げて計画し実行してほしい。[3,p23]
   
 御巡幸の打診を受けた占領軍総司令部は、冒頭で紹介したような魂胆もあって、許可した。

 

3.「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」■

 

 昭和二十一年二月十九日の最初のご訪問の地は、昭和電工・川崎工場であった。食糧増産に必要な化学肥料の硫安を生産していたが、空襲で70%の設備が破壊され、社員は必死で復旧に努めていた。
       
 一列に並んだ工員たちに、昭和天皇は「生活状態はどうか」、「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれた。感極まって泣いているものも多かった。案内していた森社長は、天皇が身近な質問ばかりされるので、宮中で安楽な生活をされていたら、こんなことは口だけでは言えまい、と急に深い親しみを感じた。[4,p376-381]
   
  二度目の御巡幸は、二月二十八日、都内をまわられた。大空襲で一面、焼け野原である。新宿では、昭和天皇の行幸を知った群衆が待ちかまえ、自然に「天皇陛下、万歳」の声が巻き起こった。昭和天皇が帽子をとってお応えになると、群衆は米兵の制止も振り切って、車道にまでなだれこんだ。これ以降、巡幸される先々で、このような光景が繰り返された。[3,p61-62]
   
4.あつさつよき磐城の里の炭山に

 

 昭和二十一年には、関東、東海地方の各県を廻られ、二十二年六月には、大阪、兵庫、和歌山。そして八月の酷暑の中を東北全県の巡幸を希望された。側近が驚いて、涼しくなってからでは、と延期を願ったが、「東北の運命(食料の増産)は、真夏にかかっている。東北人の働くありのままの姿を是非この目に見て激励してやりたい」と許されなかった。

 

 敗戦直後で、宿舎がままならず、列車の中や、学校の教室に泊まられた事もあった。「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」と言われて、行幸を続けられた。
   
 出炭量の40%を占める重要なエネルギー供給基地福島県の常磐炭坑では、地下450mの坑内を歩かれ、40度の中を背広、ネクタイ姿で、上半身裸の鉱夫たちを激励された。深い坑内で万歳の声が轟いた。この時の御製(お歌)である。  [3,p123-127]
   
    あつさつよき磐城の里の炭山にはたらく人をををしとぞ見し
 

 

昭和21年10月、昭和天皇が愛知県を行幸、豊橋市の八町

国民学校(現・豊橋市立八町小学校)に立ち寄っています 。 


5.浅間おろしつよき麓にかへりきて

 

 この二ヶ月後には休む暇なく、甲信越地方九日間の御巡幸に出られた。最初に浅間山の初雪の中を2キロも歩かれて、山麓の大日向開拓村を訪問された。大日向村は満洲への分村移民を全国で最初に実行した村である。しかしソ連の満洲侵略により、移民694名中、ようやく半数の323名が生き残って、村に帰ってきた。そして標高1095mの荒れ地を切り開いて、入植していたのである。
   
 天皇をお迎えした開拓団長堀川源雄の奏上は、幾度となく涙でとだえた。昭和天皇のお顔も涙に濡れた。[3,p163-165]
   
    浅間おろしつよき麓にかへりきていそしむ田人とふとくもあるか 

 

6.老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひて

 

 この年、十一月から十二月にかけてには、さらに鳥取、島根、山口、広島、岡山をまわられた。島根県では新川開拓村で3万人の奉迎に応えられた後、伊波野村で農作業をご覧になられた。
   
 農業会長が、働いている老夫をさして、「我が子を二人とも失いましたが、村人の助けも得て、屈することなく働いております」と説明すると、天皇は次のようなお言葉とお歌を賜った。
   
 この度は大事な二人の息子を失いながら、猶屈せずに食糧増産に懸命に努力する老農の姿を見、一方又、これを助ける青年男女の働きぶりを見て、まことに心うたれるものがあった。このやうな涙ぐましい農民の努力に対しては深い感動を覚える。いろいろ苦しいこともあらうが、努力を続けて貰ひたい。[3,p201-203]
       
    老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひていそしむすがたたふとしとみし

  

7.ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ

 

 十二月五日、広島に入られる。広島市では戦災児育成所の原爆孤児84名に会われた。原爆で頭のはげた一人の男の子の頭を抱えるようにして、目頭を押さえられた。周囲の群衆も静まりかえって、すすり泣く。
   
 爆心地「相生橋」を通過されて、平和の鐘が鳴る中を元護国神社跡で7万の奉迎を受けられた。周囲には黒こげの立木、あめのように曲がった鉄骨が残る中で、天皇はマイクで次のように語られた。
   
 このたびは皆のものの熱心な歓迎を受けてうれしく思ふ。本日は親しく市内の災害地を視察するが、広島市は特別な災害を受けて誠に気の毒に思ふ。広島市民は復興に努力し、世界の平和に貢献せねばならぬ。
       
    ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなおる見えてうれしかりけり
       
 この中国地方行幸にお目付役として同行していた占領軍総司令部民政局のケントは、原爆を落とされた広島の地ですら誰一人天皇を恨む者がいないことに、ただただ驚くばかりであった。
   
 もともと天皇制廃止を目論んでいた民政局は、兵庫県で小学生達が禁止されていた日の丸を振ってお出迎えしたのを「指令違反」であるとして、以後の御巡幸中止を命じた。
   
 しかし、御巡幸を期待する九州、四国地方からの嘆願や議会決議が相次ぎ、昭和天皇も直接マッカーサーにお話しされた模様で、翌々年に再開が許可された。[3,p212-238]

 

 

8.子らに幸あれ

 

 昭和二十四年五月十八日から六月十日にかけては、九州全県を巡幸された。五月二十二日に立ち寄られた佐賀県基山町の因通寺には、40余名の戦災孤児のための洗心寮があった。孤児たちの中に、位牌を二つ胸に抱きしめていた女の子がいた。
   
 昭和天皇は、その女の子に近づかれて、「お父さん、お母さん?」と尋ねられた。「はい、これは父と母の位牌です」とはっきり返事をする女の子に、さらに「どこで?」。
   
 「はい。父はソ満国境で名誉の戦死を遂げました。母は引き上げの途中病のためになくなりました。」
   
 天皇は悲しそうな顔で「お寂しい」と言われると、女の子は首を横に振って、「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子供は亡くなったお父さんとも、亡くなったお母さんともお浄土にいったら、きっともう一度会うことができるのです。・・・」
   
 昭和天皇は、すっと右の手を伸ばされ、女の子の頭を2度、3度と撫でながら、「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と言われた。数滴の涙が畳の上に落ちた。「お父さん」、女の子は小さな声で昭和天皇を呼んだ。[5]
   
     みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ

 

9.天皇陛下さまを怨んだこともありました

 

 因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。昭和天皇は最前列に座っていた老婆に声をかけられた。「どなたが戦死をされたのか」
   
 「息子でございます。たった一人の息子でございました」声を詰まらせながら返事をする老婆に「どこで戦死をされたの?」
   
 「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。・・・天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きをしてください」
   
 老婆は泣き伏してしまった。じっと耳を傾けていた天皇は、流れる涙をそのままに、老婆を見つめられていた。
   
 引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下げた。「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」とお言葉をかけられた。一人の引き揚げ者がにじり寄って言った。
   
 天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは私だけではなかったのでした。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります。
       
 この言葉に、側にいた青年がワーッと泣き伏した。「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺がまちがっておった。俺が誤っておった。」
   
 シベリア抑留中に、徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖兵として、いち早く帰国を許されていた青年達の一人であった。今回の行幸で、天皇に暴力をもってしても戦争責任を認めさせ、それを革命の起爆剤にしようと待ちかまえていたのである。天皇は泣きじゃくる青年に、頷きながら微笑みかけられた。[5]

 

10.復興のエネルギー

 

 九州御巡幸では約190カ所にお立ち寄りになり、各県とも6、7割の県民が奉迎したので、約700万人とお会いになった。
   
 御巡幸はその後も、四国、北海道と昭和二十九年まで続き、八年半の間に昭和天皇は沖縄をのぞく、全都道府県をまわられ、お立ち寄り箇所は1411カ所におよんだ。奉迎者の総数は数千万人に達したであろう。
   
    戦のわざはひうけし国民を思ふこころにいでたちてきぬ
    わざはひをわすれてわれを出むかふる民のこころをうれしとぞ思ふ
    国をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たのもし 
   (*なりはひ=しごと)
    
 大日本帝国が崩壊して、始めて国民は間近に天皇を拝する機会を得た。驚くべき事に、それは人々と共に悲しみ、涙を流す天皇であった。一人ひとりが孤独に抱えていた苦しみ、悲しみに、天皇が涙を流された時、人々は国民同胞全体が自分達の悲しみ、苦しみを分かち合ってくれたと感じ、そこからともに頑張ろう、という気持ちが芽生えていった。戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれた。

 

 昭和六十三年九月、昭和天皇が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約九百万人が記帳に訪れた。40数年前の御巡幸で昭和天皇に励まされた人々も少なくなかったであろう。
   
 昭和天皇は病床で「もう、だめか」と言われた。医師たちは、ご自分の命の事かと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた昭和天皇の御心は、今上陛下によって平成五年に果たされた。 [a]

 

■リンク■
a. JOG(112) 国柄探訪:共感と連帯の象徴

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. ★★「天皇家の密使たち-占領と皇室」、高橋紘・鈴木邦彦、
  文春文庫、H1.3
2. ★★「天皇裕仁の昭和史、河原敏明、文芸春秋社、S58
3. ★★★「昭和天皇の御巡幸」、鈴木正男、展転社、H4.9
4. ★★★「天皇家の戦い」、加瀬英明、新潮文庫、S60.7
5. 「天皇さまが泣いてごじゃった」、調寛雅、祖国と青年、H11.4
 

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【仲間均&箕底用一】石垣市議尖閣上陸!

 

 

 

 

 



コメント(28)

2010/12/22 07:46

 Commented by tropicasso さん

花うさぎさん、おはようございます。
今上天皇陛下のご生誕日を毎年こうしてお祝いできるのは日本国民にとって大変な慶賀です。
これからも皇后陛下とご一緒にこの瑞穂の国が物心とも世界一豊かな国へ昇華すべくご祈願戴ける様、いつまでもおすこやかにお過ごし戴きたいと思います。
世界中に聖職者や国家元首が数多おられますが、天皇・皇后両陛下のご人格に匹敵する人物は皆無ですね。
我々日本人はこの様な立派な国土、国家と元首を抱いている幸せに日々感謝しないといけません。
二拝、二拍手、一拝です。

 
 

2010/12/22 08:10

 Commented by 花うさぎ さん

To tropicassoさん おはようございます。

>今上天皇陛下のご生誕日を毎年こうしてお祝いできるのは日本国民にとって大変な慶賀です。

本当ですね。私も明日は参賀にいってまいります。

>我々日本人はこの様な立派な国土、国家と元首を抱いている幸せに日々感謝しないといけません。

文字通り、日本が世界に誇る皇室文化ですね。

 
 

2010/12/22 08:29

 Commented by abusan123 さん

寬仁殿下は先帝陛下には逆立ちをしても敵わないとおっしゃいましたが
その理由の一つがこの逸話ですな(^◇^;)

先帝陛下の御行幸は臣民が国の為、民衆の為に戦った事を
証明するが為の御英断だったとabusanは考えます。

もし、民衆が陛下を恨むならば自らの退位どころか
皇室の廃止すら御覚悟されてた事でしょうが、民衆は
先帝陛下を認めた、それで現在の象徴的な皇室が有る
と言う事ですな。

皇室は国民の権威を現すのに必要不可欠な存在であり
国民の為の「機関」と言えましょう(^o^)

戦後の繁栄の秘密が此処にも隠されています。

 
 

2010/12/22 08:45

 Commented by pioneer48 さん

先日行った喫茶店でマスターと馴染みの客が
「皇室には朝鮮民族の血が入っている事は
今の陛下も認められていますね」と言う話を
していました。

渡部名誉教授の本を見ても、事実だそうですが、
教授は「染色体の事を話し、朝鮮民族は女性なので
打ち消され、朝鮮民族の血が今も続いている
訳では無い」と言う様な説明をしていました。

この件で、反日的な者にこの事を言われた場合、
巧く反論出来る言い回しをお知りなら教えて下さい。

 

2010/12/22 09:03


 Commented by おっさん さん

基山町因通寺の女の子の話が出ていました。基山町より西方の当時武雄町と言っていましたが、そこに住んでいました。私はこの時小学校3年生で御巡幸のお出迎えのため並んでいたこと、目の前を通られたことを思い出しました。これ以上のことを思い出せませんが、基山町の女の子は実に立派ですね。今でこそこのブログに書かれているようなことは理解できますが、当時は全く判らないままお迎えをしていました。

 
 

2010/12/22 09:44

 Commented by iza1824 さん

花うさぎさん おはようございます。

> ■8.子らに幸あれ■
昭和二十四年五月十八日から六月十日にかけては、九州全県を巡幸された。

この時の事記憶しております。御行幸の際当時は列車でなされていたと思います。その当時は私は山口県下関市に住んでおりましたが、小学校1年生でしたが、全校生徒が列車の通過する踏切に整列して、列車の最後尾にお立ちになった両陛下に万歳をしたことを鮮明に憶えております。
61年前のことですね?

 
 

2010/12/22 12:03

 Commented by 花うさぎ さん

To abusanさん こんにちは。

>寬仁殿下は先帝陛下には逆立ちをしても敵わないとおっしゃいましたが
>その理由の一つがこの逸話ですな(^◇^;)

それははじめて聞きました。

>戦後の繁栄の秘密が此処にも隠されています。

やはり天皇陛下は凄い!と思います。国民も大切に御皇室を守ってきたわけです。


 
 

2010/12/22 12:20

 Commented by 花うさぎ さん

To pioneer48さん こんにちは。

>今の陛下も認められていますね」と言う話をしていました。

天皇陛下お誕生日に際し(平成13年)天皇陛下の記者会見
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html

「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。」

この事を指しているのだと思いますが、こんな何百年も前のそのまた子孫の話ですから、とっくに純粋日本人になっていると思いますよ。

むしろ日韓併合でも命により梨本宮方子(なしもとのみや・まさこ)妃が嫁がれているわけですから、むしろ日本の方が気を遣っていたわけです。

それでもなお、この民度の違いですから、朝鮮民族はどうしようない、と私は思います。天皇陛下は絶対に韓国などには行くべきではないと思いますよ。
 

 

2010/12/22 12:21

 Commented by 花うさぎ さん

To おっさんさん こんにちは。

>私はこの時小学校3年生で御巡幸のお出迎えのため並んでいたこと、目の前を通られたことを思い出しました。

へえ~、そうなんですか?

>基山町の女の子は実に立派ですね。今でこそこのブログに書かれているようなことは理解できますが、当時は全く判らないままお迎えをしていました。

皆、当時の日本の子どもは純粋で素直だったのでしょうね。

 
 

2010/12/22 12:24

 Commented by 花うさぎ さん

To iza1824さん こんにちは。

>この時の事記憶しております。御行幸の際当時は列車でなされていたと思います。

おお~凄い!

>全校生徒が列車の通過する踏切に整列して、列車の最後尾にお立ちになった両陛下に万歳をしたことを鮮明に憶えております。

いや~生々しいお話しですね。

>61年前のことですね?

そうですね、ちょうどそのくらいになりますね。

 
 

2010/12/22 15:49

 Commented by odajimaouhachi さん

> 「皇室には朝鮮民族の血が入っている事は
こういう話をされる方の暗黙の前提には、どうも日本人が排外主義的だという先入観があるようです。GHQが植え付け左翼が広めた自虐史観の一環であろうと思われます。「反差別」を叫んでおきながら、下種の勘繰りで彼らの暗い差別感情があらわになってくるのですね。

大多数の日本人にしてみれば、戦後の不逞鮮人の狼藉や、韓流洗脳政策に対して怒りを感じることはありましたが、それがなければ朝鮮人という小さな存在自体に対して無関心なのです。

そもそも千年も前の、朝鮮半島に統一国家もなければ朝鮮人という一体感もない時代のことを引き合いに出さなくても、間近に日韓併合という事例があるではないですか。李王家も皇位継承候補に数えられていた時代があったのです。このことをあえて避けて話すのも、左翼の「血統主義」への逆立ちしたこだわりが垣間見えるような気がします。

余談ですが、よく「中華文明は朝鮮を通って日本に伝えられた。だから朝鮮は日本の兄貴分だ」というトンデモ論がありますが、朝鮮半島が生えている根元を良く見ろと言いたいですね。満州ですよ。日本の敗戦まで漢人の支配下になかった領域ですよ。ツングース・モンゴル・トルコなど様々な騎馬民族がバンキョした荒野です。

そんなところをトコトコあるいて貴重な文物や文化人が旅をしてきますかね?朝鮮半島にだって海を渡って文物が届けられたのです。渡航コストもそれほど差異があるわけではないので、直接日本に渡来する方が自然というものです。

最近の研究では米も人も古代文化も日本からわたっていったということがわかってきました。朝鮮人は日本人の弟分なのですよ。大目に見てやるからあまりつまらないことをやるな、といっておきましょう。

 
 

2010/12/22 16:06

 Commented by tropicasso さん

花うさぎさん、横レス失礼します。
To pioneer48さん、こんにちは。

>教授は「染色体の事を話し、朝鮮民族は女性なので打ち消され、朝鮮民族の血が今も続いている訳では無い」と言う様な説明をしていました。
>この件で、反日的な者にこの事を言われた場合、巧く反論出来る言い回しをお知りなら教えて下さい。

=>渡部先生を敬愛して止まないファンの一人です。先生の意図は次の様に思います。
・天皇家が万世一系なのは男性天皇の血筋(即ちY染色体、女性には存在しない)を残そうとすると、男子の子供のみがY染色体を継承することができます。天皇は男性に限るというのはそういう理由です。
・愛子様が将来の天皇となられた場合、天皇家存続からお子様のどなたが次期天皇候補になられます。先に、述べた通り、天皇家の正統なお世継ぎは天皇家のY染色体を受け継いでいないといけません。
・愛子様は紛れもなく皇太子のお子様ではありますが、女性の為にY染色体をお持ちではありません。
・では愛子様のお子様は誰のY染色体を受け継いでおられるのかと言えば、愛子様のご亭主の家系のDNAであります。つまり、この時点で、天皇家の一系が途絶えることになります。下世話に言えば、どこかの『馬の骨』のDNAが天皇家を名乗ることになります。
・こういう理由で天皇家は万世一系でなければなりません。女性天皇は過去、6人8代おられる筈ですが、言わばリリーフであって、お世継ぎは男系に限られています。

以上が、男系男性天皇でなければならない理由です。私の仮説ですが、瑞穂の国の開祖神は天照大神で、女性と言われています。この大神のDNAを継承する為に子孫代々、天皇家の男系Y染色体が必要な訳で、男系男性天皇論が女性蔑視というのは全く当りません。寧ろ、日本は女神を仰いでいます。天皇家の存続は女性を尊重しているということに他ならず、日本は世界最古のフェミニスト国家と言えます。

どこかに間違いがあれば、読者識者のご指摘を仰ぎたいと思います。

 
 

2010/12/22 19:56

 Commented by kinton さん

いつも『日本人でよかった』と思わせて頂ける内容ありがとうございます。
昭和天皇が崩御されました日、外国人の記者の方が、きっと、何かがおこる、暴動がおこるかもしれない。
と思い、皇居へ向かった。
しかし、何もおこらず、日本中が悲しみにつつまれシーンと静まり返っていた。
と話されていました。
これが、日本なのですね。

 
 

2010/12/22 20:43


 Commented by takasi1953 さん

>昭和二十四年五月十八日から六月十日にかけては、九州全県を巡幸された。

この時佐賀高校1年生であった。3校合併で1学年1000名に膨れ上がったので、校舎は旧制佐賀中・佐賀高女・成美高女の3ヶ所に分かれていた。
陛下は我々が通っていた佐賀高女と県庁の間の道を通られた。

生意気な高校生であったが、全員沿道まで出て歓迎の小旗を振った。日の丸であたかは定かではない。占領中のため駄目だった様な気がする。

何はともあれ、天皇陛下と一体になった瞬間であった。

 
 

2010/12/22 21:14

 Commented by 花うさぎ さん

To odajimaouhachiさん こんばんは。

詳しい書き込み、ありがとうございます。

>最近の研究では米も人も古代文化も日本からわたっていったということがわかってきました。

私もこちらの方が自然だと思います。

>朝鮮人は日本人の弟分なのですよ。

うわ~ご勘弁。出来れば縁を切りたいくらいです。

 
 

2010/12/22 21:17

 Commented by 花うさぎ さん

To kintonさん こんばんは。

>いつも『日本人でよかった』と思わせて頂ける内容
>ありがとうございます。

とんでもないです。私もこの世界が大好きなんです。

>これが、日本なのですね。

あの時のことは良く覚えています。民間が率先して歌舞音曲の自主規制して、政府の方が「普通に営業して欲しい」とアピールする始末でした。ああ~日本だ、と思いました。

 
 

2010/12/22 21:20

 Commented by 花うさぎ さん

To takasi1953さん こんばんは。

>陛下は我々が通っていた佐賀高女と県庁の間の道を通られた。

おお~体験されたのですか?

>何はともあれ、天皇陛下と一体になった瞬間であった。

終戦直後の荒廃した時代、さぞかし勇気づけられたことでしょうね。正に偉業だと思います。

 
 

2010/12/22 22:07

 Commented by katachi さん

天皇陛下と言へば、昭和天皇の時世に九州ご巡幸の折、私の通っていた小学校に立ち寄って下さった思い出があります。
校門から玄関まで生徒の沿道が続き陛下を迎えた記憶があります。
今思えば、大東亜戦争を経験され、敗戦で日本復興の為全国御巡行で労働者を励まされ、歴代の天皇陛下の中では激動を生き抜いた現人神でしょう。
人間宣言をされたとは言へ、北海道では、左翼労働者が赤旗を構えて迎えようとしたが、イザ陛下が現れると皆、赤旗を放り出し「万歳」を叫んだそうです。

 
 

2010/12/22 22:15

 Commented by pioneer48 さん

To tropicassoさん
>To pioneer48さん、こんにちは。
>
>=>渡部先生を敬愛して止まないファンの一人です。先生の意図は次の様に思います。
>・天皇家が万世一系なのは男性天皇の血筋(即ちY染色体、女性には存在しない)を残そうとすると、男子の子供のみがY染色体を継承することができます。天皇は男性に限るというのはそういう理由です。
>・愛子様が将来の天皇となられた場合、天皇家存続からお子様のどなたが次期天皇候補になられます。先に、述べた通り、天皇家の正統なお世継ぎは天皇家のY染色体を受け継いでいないといけません。
>・愛子様は紛れもなく皇太子のお子様ではありますが、女性の為にY染色体をお持ちではありません。
>・では愛子様のお子様は誰のY染色体を受け継いでおられるのかと言えば、愛子様のご亭主の家系のDNAであります。つまり、この時点で、天皇家の一系が途絶えることになります。下世話に言えば、どこかの『馬の骨』のDNAが天皇家を名乗ることになります。
>・こういう理由で天皇家は万世一系でなければなりません。女性天皇は過去、6人8代おられる筈ですが、言わばリリーフであって、お世継ぎは男系に限られています。
>
>以上が、男系男性天皇でなければならない理由です。私の仮説ですが、瑞穂の国の開祖神は天照大神で、女性と言われています。この大神のDNAを継承する為に子孫代々、天皇家の男系Y染色体が必要な訳で、男系男性天皇論が女性蔑視というのは全く当りません。寧ろ、日本は女神を仰いでいます。天皇家の存続は女性を尊重しているということに他ならず、日本は世界最古のフェミニスト国家と言えます。
>
>どこかに間違いがあれば、読者識者のご指摘を仰ぎたいと思います。

本当に詳細にご解説下さり、ありがとうございました。謝々!
私は頭が良くありませんので、直ぐに完全には理解出来ませんが、
何度か読んで理解に努めます。(^^ 

 

2010/12/22 23:01

 Commented by minato さん

歴史的に百済人と現在の朝鮮人に血縁関係は薄いと思われるのですが、韓国人は国の歴史を正しく認識しているのでしょうか?

百済を唐とともに破った新羅が統一新羅を打ちたて、その後高麗に敗れる。高麗の王は遊牧民、鮮卑であり、高麗時代にモンゴルの侵略を7~8度半島内部まで受け、多くの人々は殺戮され20万人が捕虜として内陸に連れ去られている。以来高麗王はモンゴルのハーン一族の娘と婚姻を余儀なくされたので、高麗王にはモンゴル人の血が混じっている。次に王となった李氏は遊牧民 女直人であり、大陸内部の民族である。李氏朝鮮は500年続き日韓併合を経て現在の韓国、北朝鮮がある。

朝鮮人は日本に文化を教えたと恩着せがましくいうが、資料もなく不確実な古代に日本に与えた恩よりつい100年前に日本の資金と技術でインフラを整備し学校を作りハングルを普及させた日本から受けた恩について思いをはせるべきである。日本人は自国の歴史を勉強し、大いにわれわれの祖先を誇りとすべきである。

韓国人が誇るハングルはモンゴルに伝わったモンゴルのトンパ文字
を改良した文字であることを韓国人は認めたがらないそうです。また朝鮮という国号は明の洪武帝が選んで名づけたもので、以来清国から独立するまで朝鮮と称していました。したがって百済の時代には朝鮮人は存在していません。

以上は主にモンゴル史を中心に東洋史が専門の宮脇淳子先生から学びました。

 
 

2010/12/22 23:12

 Commented by minato さん

間違いを訂正します。

>韓国人が誇るハングルはモンゴルに伝わったモンゴルのトンパ文字

モンゴルに伝わったチベットのトンパ文字

 

2010/12/22 23:44

 Commented by ninngilyouyaki さん

詳しくはありませんが

昔は倭の国日本が南朝鮮を支配していたと言う事ではありませんでしたか。
あとで今の朝鮮人がやってきたわけで、(minato さまの言われるように)
百済とはご縁があり天皇に百済人の血が入ったのですがまれな事です。

洗面器に一滴インクをたらして透明な水をインクと言うようなものです。

朝鮮人に元日本の領土の半島から出て行けといいたくなることがありますね。言いませんけど。

 

2010/12/22 23:46

 Commented by ninngilyouyaki さん

すいません。天皇でなく天皇家でした。

 
 

2010/12/23 05:03

 Commented by eight-american さん


花うさぎさん、こんにちは。
いつもすばらしいブログをありがとうございます。

昭和天皇の御巡幸「復興への三万三千キロ」、感動いたしました。
日本人は幸せです。
こんなすばらしい天皇という国家元首をもっているのですから。
日本に生まれて良かった、日本人であることに誇りを感じます。

今回の記事、リンクをいただいていきますね。
「天皇陛下の御誕生日を祝寿し、御長寿と皇国の益々の繁栄を祈願いたします。
天皇陛下万歳 日本国万歳」のお言葉もお借りいたしました。
花うさぎさんの撮影のデモの美しいお写真など、私のブログで紹介させていただいておりますが、いつも事後承諾で申し訳ありません。

 http://eight-americann.seesaa.net/article/174578613.html

     えいと@

 
 

2010/12/23 06:33

 Commented by 花うさぎ さん

To katachiさん おはようございます。

>校門から玄関まで生徒の沿道が続き陛下を迎えた記憶があります。

体験者でしたか(^^)。

>歴代の天皇陛下の中では激動を生き抜いた現人神でしょう。

本当ですね。特にこのご巡幸は特筆大書されるべき偉大な功績だと思います。

>イザ陛下が現れると皆、赤旗を放り出し「万歳」を叫んだそうです。

この手の話は山ほどありますね。

 
 

2010/12/23 06:35

 Commented by 花うさぎ さん

To minatoさん おはようございます。

>日本人は自国の歴史を勉強し、大いにわれわれの祖先を誇りとすべきである。

はい、その通りです。

>以上は主にモンゴル史を中心に東洋史が専門の宮脇淳子先生から学びました。

情報ありがとうございました(--)。

 
 

2010/12/23 06:39

 Commented by 花うさぎ さん

To ninngilyouyakiさん おはようございます。

>昔は倭の国日本が南朝鮮を支配していたと言う事ではありませんでしたか。

というか、建国まえも建国後も、1500年以上にわたって植民地と属国の連続だった朝鮮半島なんですよ。国の体をなしたのは併合時の大韓帝国時代と戦後くらいな気の毒な民族だったのです。

>朝鮮人に元日本の領土の半島から出て行けといいたくなることがありますね。言いませんけど。

その前に在日と反日帰化人はさっさと出て行け!と言いたいですね。

 
 

2010/12/23 06:41

 Commented by 花うさぎ さん

To eight-americanさん おはよいうございます。

>昭和天皇の御巡幸「復興への三万三千キロ」、感動いたしました。

それは嬉しいです(^^)。

>日本に生まれて良かった、日本人であることに誇りを感じます。

私もそう思います。それだけに一日でも早く「日本」を取り戻したいです。

>花うさぎさんの撮影のデモの美しいお写真など、私のブログで紹介させていただいておりますが、いつも事後承諾で申し訳ありません。

とんでもないです。いつもありがとうございます(--)。



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