挑発

2008年10月04日

ペリー以来の願望を達成した!

今年の春に阿比留さんのブログで映画「靖国」をテーマにしたエントリー中、日教組(三重県教職員組合)の理事だったという人と歴史認識についての論争になったことがあります。そのときは「先の戦争はアメリカが仕掛けた」とも云えるんだよ、と私が主張したら相手が相当ビックリしていたのを思い出しました。そういう考え方に接するのが初めてだったようです。 


とにかく自虐史観の見本みたいな人でしたから、何を言っても無駄だったのですが、日本人でもそのように見ている人がいる、という例を以下に示します。ちょっと長いので興味のない方は飛ばして下さい。あれからどの本のどの場所だったかなと思っていて、やっと見つけました。


「もはや太平洋に邪魔者はいない


 アメリカは西部劇の延長としてアジア太平洋の覇権に乗り出したが、その目的を果たすためにライバル日本を挑発し、戦争を仕掛けてこれを降伏させようとした。米国の遠大なオレンジ計画(日露戦争直後、米のセオドア・ルーズベルト大統領の、日本を仮想敵国として、いかに挑発、降伏させるかの大計画)の成果が「太平洋戦争」であった。

 その遠因、近因、戦況、結果等については、すでにおびただしい報告、評価がなされているので、ここでは触れない。ここでは米国の騙しと破約の手口を中心に要約してみることにした。
 嘉永六年(1853)のペリー来航に、日本への桐喝強要侵略の意図があったことは、約100年後、日本の敗北を知った「ニューヨーク・タイムズ」の昭和二十年八月十四日付の社説に明らかである。
 すなわち「ニューヨーク・タイムズ」は「太平洋の覇権をわが手に」という大見出しの下に、「われわれは初めてペリー以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これでアジア大陸の市場と覇権は、わが物になったのだ」と書いたのだ。
 これでペリー以来のすべての行動が、日本への侵略行為であったという底意を、はっきりと表明したのである。 
 

 

 アメリカは、第一次大戦終了後のパリ講和会議(1919)において、日本の人種差別撤廃の提案をウイルソソ米大統領の独断で拒否し、日本の出端(でばな)をくじいた。

 続くワシソトソ軍縮会議(1921)では、米英が組んで、海軍主力艦隊総力を米五、英五、日三に決めさせた。この不平等の傾向は、ロンドン会議(1930)にも及んだ。英米は日本の軍事力を最小に抑えて、日本との開戦に備えていたのである。

 昭和三年(1928)にアメリカは「パリ不戦条約」を主唱して「戦争放棄」を宣言し、各国の軍備を「現状維持」に抑えさせた。これは持てる国の侵略性や植民地主義を現状維持し、後発の日本の膨張進出を一方的に抑えるためであった。日本の対米英協調の基本戦略をよいことに、一方的に独善的で強引な策謀を強要しつづけたのである。

 

 アメリカは日本叩き、日本いじめ政策の第一弾として、元来、移民歓迎を国是としてきたにもかかわらず、日本移民だけを締め出す「排日移民法」を制定した(1924)

在米資産を凍結して、あからさまな反日行動を採りはじめた。

 

日本はペリー以来、アメリカを文明の先進国、先生として信頼し、尊敬し、一度も反米的行動を採ったこともなければ、ましてや米国に侵略戦争を仕掛ける意図など毛頭なかった。それなのにアメリカは、一貫して日本をアジア進出のライバルと位置づけ、日本抹殺政策を採りつづけたのである。

アメリカの思惑どおりに進んだ日米開戦

 支那事変は、蒋介石をそそのかした米ソの日本叩きの代理戦争であったのだ。米は大量の援助物資を送り、日本の軍事力を大陸でとことん消耗させ、その後に予定する日米戦争を有利に導くための努力を続けた。


 米は義勇飛行隊と偽って正規の空軍(フライソグタイガー)を派遣し、日本軍と対戦しているのである。そればかりか米は蒋に軍事顧問を送り、早くも対日宣戦布告の準備をしていたのである。

 

米は日本を追いつめるため、石油とくず鉄の輸出を禁止してきた。「石油の一滴は血の一滴」と言われる時代に、日本にとってこの打撃は致命的であった。日本は生き延びるため、東南アジアの石油資源を求めて、南方に進出したが、これはやむをえない措置だった。さらにABCD(米英中蘭)ラインという経済封鎖をして、日本封じ込めのいやがらせを実行してきた。

 

 日本はこの危機を平和的に解決するため、誠意をもって日米交渉を進めた。野村駐米大使とハル国務長官との間の交渉は、昭和十六年(1941年3月8日から11月16日まで)の九ヵ月にも及んだ。

 もとより米は交渉をまとめる意図はさらさらなく、戦争準備の時間稼ぎをしたにすぎなかった。そのため当初から日本側を苛立たせるだけで、解決の糸口は、まったく見つからなかった。米は日本側がとうてい飲めないことを承知で、次々と難題を吹っかけ、開戦せざるをえないように挑発しつづけた。

 ついに十一月二十六日、最後通牒としてのハル・ノートを突きつけてきた。これは明らかに宣戦布告であった。「日本よ、大陸から出ていけ」、「日本よ、死ね」と迫ったのである。

 

 このよう屈辱を受ければ、勝ち目がなくても窮鼠猫を噛むの心境になるのは当然である。日本は決然と、抗戦に踏み切ったのである。アメリカは、真珠湾攻撃を事前に知っていた。知っていたが、あえてそのまま攻撃をさせて身内に犠牲を作り、「真珠湾を忘れるな」と国民に戦意を煽り、自らの謀略を糊塗しようとしたのであった。

(以下略、清水馨八郎著、裏切りの世界史 P138-140、祥伝社黄金文庫)。

 




コメント(2)

2008/10/04 23:19

 Commented by du-staro さん

hanausagi様

 今のイラク戦争と比較すればわかりますが、戦争の責任はどちらにあるかというとブッシュでしょう。大量破壊兵器なんて結局存在しなかった。
 でも、この戦争の勝者はアメリカで、戦争によって悲惨な目にあっているのはイラク国民です。
 この戦争の敗戦の責任はフセインにあります。戦争すれば負けるとわかっているのなぜ戦争を避けなかったか。戦争は外交の発露といいますが、外交で負けたのがフセインであり、東条英機だったんではないでしょうか。

 
 

2008/10/05 06:43

 Commented by 花うさぎ さん

To du-staroさん

確かに日本とアメリカの戦争だけを見ればアメリカが勝利し、「もはや太平洋に邪魔者はいない。これでアジア大陸の市場と覇権は、わが物になったのだ」と喜んでいましたが、結果は大陸で何も手に出来なかったどころかアジアに共産主義国家の台頭を許してしまったのです。

一方、戦勝国である白人キリスト教国家は、インドネシアの独立戦争をきっかけに、それまで持っていた植民地をことごとく失い、惨めな小国に成り下がったのでした。

日本が白人国家と正面から戦った結果、東南アジアの人々に独立に向けた勇気を与えたことは間違いありません。その結果、戦後、世界の植民地は次々と独立を果たしたことは世界史に残る画期的なことでした。

日本人ももう胸を張って大東亜戦争を語っても良いと思いますよ。白人国家との植民地主義との戦争は完全勝利したのです。世界の識者がそういっているのです。

 




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hanausagi_fan at 07:55|PermalinkComments(0)